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お年寄りは帰りたい。でも職員は、あの手この手で作戦を練る。なので、帰らせてくれないと嘆くお年寄り。

カテゴリー:デイサービス玉樹/2017年5月17日

帰宅願望の強い方への接し方については介護者にとっては腕の見せ所と意気込んで、かえって違うアプローチになっているのでは?と考えていました。

職員が、その人の先の先をよんで、知った気になって、一手先二手先の行動をこちら側がする事によって、さらに混乱させているような気がする場面に違和感を覚えます。

『痴呆論』(時代が変わって今は『認知症論』)いう本にヒントがありました。

 

 

一人ひとりの関係づくりのポイントは、
彼らが介護関係から逃れたがっている、という点である。
このことの洞察がないままだと、むしろ私たちは、
介護者として介護を受け入れるよう、
ここに留まるよう説得してしまうことになる。
これでは、自分の介護者としての立場をますます強調してしまうことになるのだ。
じつは、それこそが老人が拒否してしまうものなのに。
そこを見事に洞察してみせたのは、竹本匡吾である。

 

 

そのうち井原さんは、夕方になると息子が迎えにくるというのを
覚えていられるようになり、毎日昼ごろからデイの玄関で待つようになった。

目を離すと、歩いてどこかに行ってしまいそうで、
職員は時折言葉かけをするのだが、
なかなかうまくいかない。

「七時ごろに息子さんが迎えに来るから」などとうかつに話すと、
「なぜあなたはそれを知っているんですか」と逆に突っ込まれそうな上に、
「まだ来られないから中で待ちましょう」などと言っても、
「結構です、ほっといてください」と言われるのがオチだった。

井原さんにとっては、われわれ職員が引き止めるから帰れないのだ
と思っているフシがあって、帰れないことを職員のせいにして、
待っていることの辛さを都合よく他人に転嫁しているところもあった。

その日も少しいらいらしながら待っていた井原さんは、
そばに寄ってきた私がまたおかしな言葉かけをするかと思ったようなので、
私はあえて「日が長くなりましたねー」と全く無関係な声かけをして遠くを見た。
すると少し驚いたのか戸惑ったように
「そうね、ずっと待ってるんだけど(息子が)来ないんよ」と言い、
寂しげに笑ったのだった。

つまり「息子を待っている」のは井原さん個人であり、
私ではないし、ましてや私のせいで待たされているのでもない、
という関係がその瞬間二人の間にバチッと確立したのである。
そんなことがあった以後、待つのに飽きると建物に入り、
皿拭きを手伝ってくれることもあるようになった。

デイに限らず施設の職員は、お年寄りをなんとか説得してそこに適応させようとし、
それが上手なことを自慢に思ったりもしている。
そこには、「自分は施設の職員で、このお年寄りは利用者だ」という
一方的な分断線があるのである。

「家に帰らせて」とせがむお年寄りに、
職員という立場から説得という手段で相手をすることは、
かえって問題に正面から向き合わず、
逃げているだけのように私には思える。
その瞬間、介護職であることを忘れてただの一個人、一私人として
相手をしないことはむしろ卑怯なことではないだろうか。

職員という立場ではなく、ただの一個人に立場をずらされてしまうと、
お年寄りはだれのせいにもできないために
「帰れない」という事実をかえって自分の問題として捉え、
「本当に帰れないのだ」という現実を、
説得されるよりもむしろ短時間で受け入れるのではないか、を私は思うのである。
人は自分で結果を悟らないと納得しないものである。

 

そうなのだ。私たち介護者もまた、介護関係から逃れなくてはならないのだ。
もちろん逃げてばかりいるわけにはいかないから、
介護者でありながらそれを超えた自分を持っているということだ。

超え方には、二通りあると思う。
一つは、より専門性を高めて超えていく、という方法だ。
(中略)
もう一つの超え方がある。それはこの竹本氏のように、
ただのお兄ちゃんになってしまうというやり方である。
介護者の立場から降りて、通りすがりの人になるのだ。

 

そうだよね。

ぴったりと隣にずっといられたら嫌だよね。